デュシャンが「7つの濾過器」で、なぜ、クフ王のピラミッドを取り込んだのか考えてみよう。

美術史の本を開くと、初めにアルタミラ、ラスコーの洞窟の牛の絵(図1)や豊饒のヴィーナス(図2)がある。その次にピラミッド(図4)が出てくる。私は長いこと、このことが分からなかった。あるとき、時代が違うが、日本の装飾古墳、たとえばチブサン古墳(図3)をそのあいだに置いたとき理解できたように思う(注1)。豊饒のヴィーナスをつくっていた人たちが何らかの幾何学的な考え方、抽象的な考え方に目覚めた。それは、方位かもしれないし、季節かもしれない。それを図形で表した。方位は測量につながり、季節は暦になっていったのではないだろうか。それらは知的武器でもあり、富を蓄積することになる。人々は、そういった自然の理法を体得した王(あるいは体得した者を擁した王)を賛美して装飾古墳を作った。そして、長い時間のなかで試行錯誤のすえに、ピラミッドを建設するに至った。「第1章 2 ピラミッド探し」でも触れたがギリシアの幾何学の始祖タレスはエジプトで学んだ。それを古代ギリシアの人々はユークリッド幾何学にまで練り上げていった。


  • 図1

  • 図2

  • 図4

  • 図3

また、歴史をさかのぼる形でピラミッドについてのべた本もある。「ピラミッド大百科」によれば、「ルネサンス時代になると、異教の支配した過去への関心が復活し、偉大なローマの背後に同じく偉大なギリシア存在することが認識され…このギリシアの背後にもエジプトをはじめとする偉大な近東の文明が横たわっていることが理解されるようになった(注2)」とある。

20世紀初頭、リセ・コルネイユで数学で一等賞に輝いたデュシャンもこれらのような道筋をたどってピラミッドに行き着いたのだろう。

そして、私はデュシャンはピラミッドを、とりわけ大ピラミッドを人類の文明の最初の到達点と捉えたと考えた。

前節で揚げた3人の建築家たちもピラミッド型の建築を構想している。
ブレ―ピラミッド状の死者の記念堂―エジプト様式の死者の記念堂(図5)
ルドゥー―大砲鋳造工場(図6)
ルクー―祖国のために死んだ勇敢な市民たちに捧げられた記念碑(図7)


  • 図5

  • 図6

  • 図7

3人の革命的な建築家がいた時代の1798年、ナポレオンはエジプトに遠征する。いわゆる「ピラミッドの戦い(図8)」(注3)を始めるのである。ナポレオンがピラミッドの前で「40世紀が諸君を見ている」と兵士たちに言った言葉は有名だ。この遠征には考古学、美術、博物学などから成る学術調査団が同行していた。その調査の結果は「エジプト誌(図9、注4)」として刊行された。


  • 図8

  • 図9

それからほぼ一世紀のち、1880年から82年にかけて、ピートリによってクフ王のピラミッドの寸法計測が行われ、傾斜角は51度50分とされた(注5)。つまり、頂角は約76度である。


  • 図2 ウィーン自然史博物館
  • 注1 チブサン古墳を中村るいも取り上げている。(「西洋美術館」 第1章 エトルリアの墓室絵画 小学館 1999年 P‐93) 中村は墓室の壁面装飾を人間の力を超えた自然界の秩序を象徴的に表現した護符的なものとしている。しかし、これを幾何学的思考の始まりと見てもよいのではないだろうか。その幾何学的思考は人間に巨大な富をもたらすことになると思う。
  • 注2 「ピラミッド大百科」 マーク・レーナー 内田杉彦訳 2001年 東洋書林 P‐42
  • 注3 図8 フランソワ‐ルイ‐ジョセフ・ワトー 1798ー99年 ここではピラミッドはまだ恣意的に描かれている。
  • 注4 図9は「エジプト誌」に描かれたピラミッド。
  • 注5 「ピラミッドの謎」 J・P・ロエール 酒井傳六訳 1973年 法政大学出版局 P‐149
  • * 現在の計測では51度50分40秒とされている。「ピラミッド」 アルベルト・シリオッティ 1998年 河出書房新社 P‐48

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